第三回は靖国神社である。
Yahoo地図はこ ちら（座標－十字カーソル－の位置が相撲場。いい加減だが、大体あの辺りにあると思ってほしい）。
幸いにして六番町からも近いのでまとめる事が出来た。
百閒先生は靖国神社の裏にある法政大学でドイツ語を教えていた（大正九年～昭和九年）ので、靖国神社に立ち寄る機会があったのだろう。
福武文庫の『先生根性』を読むと「九段坂」の地名が頻出するから、少なくとも、九段坂周辺を徘徊していたのは間違いない。
ここでは、最近読んだ坪内祐三『靖国』（新潮文庫）から、相撲場と遊就館を紹介する。
『靖国』では「靖国神社が舞台に登場してくる小説や随筆が数多くある」と書かれているが、今のところ思い浮かぶのは相撲場が出てくる「鼻」と「遊就館」
の二編のみなので、それに関係する所のみとなる。
「遊就館」という作品について簡単に言うと、大風で九段坂が曲がっている中、遊就館を見に行くと中には刀や鎧は一つも無く、天井まで届くような大
きなガラス戸棚の中に軍服を着た死骸が横並びに幾段にも重なっているのを見た、という幻想的な作品である（『旅順入城式』に所収）。いわゆる、『冥途』系
の作品と言える。
上の写真が遊就館の現況。
左の写真が靖国神社御創立百三十年記念事業の一環として増改修工事を実施中のもの。
右は増改修工事完了後の平成十五年一月二日撮影。
写っていないが、右手側に新館が増築された。
「遊就館」の初出は手持ちの講談社版全集では分からないのだが、これの解題によると、『旅順入城式』で初出の分かっているものは大正十一年から昭和四年
の発表で、『旅順入城式』が出たのは昭和九年。
遊就館は明治十五年創立、大正十二年の関東大震災で大破・撤去、大正十三年から仮館を建設開館、現在の建物は昭和六年の完成（ただし仮開館）なので、百
閒先生が「遊就館」で書いた遊就館は現在の物では無く、その前の仮館か旧館ではないだろうか。
ちなみに、旧館が現在の遊就館の位置にあったのは間違い無いのだが、仮館の位置は『靖国神社百年史』（靖国神社社務所）にも明確に記されていない。『遊
就館日誌』・『遊就館史』という物があるようなので、それを見れば分かるかも知れないが未見。
※追記
その後、筑摩の内田百閒集成版『冥途』では「遊就館」は昭和四年の発表となっていた。
という事は仮館の可能性が高いのだが、旧館をイメージして書いたということも充分考えられる。
靖国神社は現在と異なり、戦前は坪内祐三『靖国』に見られる様ななかなかに賑わった場所であるから、関東大震災以前に靖国神社を百閒が訪れていたかもし
れない。
相撲場。短編「鼻」の舞台となった場所である。
百閒先生が法政大学で教鞭をとっていた頃、平井という学生ともう一人、伊藤長一郎という学生（クラスで人の弁当を盗み食いするのが流行った時、自分の弁
当の鯵の向きが変わっている。食うなら食うでいいが、食いもしないものをいじくりまわすのはけしからんから注意してくれと百閒先生に訴えたあの学生であ
る）とで、学生の会か何かで遅くなりどういう訳か神社の境内に入り込み、ぶらぶらしていると、この相撲場に出た。
そこで伊藤と平井が相撲を取りだし、百閒先生はそれを見物していると、伊藤が鼻血を出し、相撲はおしまい。ついでに憲兵に見つかって、早く帰らないと門
を閉めてしまうからと外に追い出される、というのが「鼻」の大まかな内容。
この相撲場は当時のまま、位置も変わっていない。土俵にはシートがかぶされているので、「谷底の様な所にある土俵の表だけがほのかに白く見えた」
（「鼻」）とはいかないが。
「カメレオン・ボナパルテ」（『夜明けの稲妻』所収）にも「鼻」と同様の事が書かれている。
現在の相撲場も、擂り鉢状の底に土俵があり芝生の観覧席、という百閒先生の描写通りである。この形状は、明治三十六年十二月四日の「靖国神社伺書」の
「相撲場設置仕様設計」で、
「…図面ニ示スカ如ク現場地形ヲ利用シ、四方ノ地盤ヨリ土俵囘リ溜リマテニ五尺ノ勾配ヲ付ケ、順次ニ掘下ケ其中央ニ溜リ地盤ヨリ弐尺五寸高ニ土俵ヲ取設
ク、又桟敷代用トシテ溜ヨリ五尺ノ勾配ヲ上ケ切リ地盤ヘハ蹴上ケ一尺五寸巾ノ土壇ヲ三段乃至五段取設クヘシ」
とある事からも、設計通りの様だ。
なお、現在相撲場は立ち入り禁止となっているので、もしここを訪れようとする人は職員もしくは警備員に許可を貰ってから見学して頂きたい。
勿論、この写真はたまたま通りかかった警備員さんに許可を得て撮影した。土俵の所は工事中の資材置き場も兼ねているそうで、下には降りてはいけない、と
の事だった。中途半端なアングルなのはそのせいである。
ところで、閉門だからと憲兵に追い出された後の事は「鼻」には書かれていない。靖国神社に門限がある事を知って驚いたとはあるが、その後どうした
かについては分からないのである。
これは「カメレオン・ボナパルテ」に、
「憲兵に追い立てられ、二人を連れて靖国神社から横の電車通りに出た。それから後はどうしたのか、丸で記憶に残つてゐない」
と書いてあった。
それではこの出た門がどこなのかという問題があるのだが、これは「電車通りに出た」とある事から靖国通りに出たのは間違い無い。
そうすると、南門か神門からと推定出来る。どうでも良いと言えば、どうでもいいのだが、一応両方共写真に収めておいた。
南門
ここから入ればすぐ本殿
神門
南門より手前にあたる
正面に中門鳥居・本殿（白くなった所）が見える
高さ六メートルの神門の扉
短編「鼻」はこう締めくくられる。
「伊藤は卒業して姓が変はり、大橋と云つた。大橋長一郎少尉の戦死の報を聞いて、十五六年昔の靖国神社のたそがれを思ひ出した。護国の鬼となって靖国神
社に帰つて来た長さんの霊が、たまには社殿の裏の相撲場へ遊びに出て、少年時代の夢の破片を探してゐやしないかと云ふ気がする」
坪内祐三は、靖国神社に祭られている戦死者の霊に「英霊」以外のもの、「英霊」と見なしながらも、その「英霊」が、靖国神社のある空間の中で、もっと日
常的な霊に変わっていくのを感じた人物として百閒先生を挙げている。
そして、百閒先生にとって靖国神社はその社殿だけではなく、社殿裏の相撲場に「少年時代の夢の破片を探しに」「遊びに」来ているかもしれない「長さん」
の霊を思う。そうした連想を喚起する広がりを持った空間が靖国神社だったとしている。
とかく反動的見方をされる靖国神社だが、そもそも慰霊の場であり、かつ上記の様な「英霊」に思いを馳せる場でもあったのだ。
なお、見学は休日だと割合人出があるので、ほとんど誰も居ない平日をお勧めする。時々、黒い車に乗った外見の怖い人（笑）がいるが、いきなり襲われたり
することはないので、大丈夫である。
参考文献
『内田百閒全集 第四巻』（講談社、昭和四十七年）
『内田百閒全集 第十巻』（講談社、昭和四十八年）
『靖国神社略年表』（靖国神社社務所編刊、昭和四十八年）
『靖国神社百年史 資料編 中』（靖国神社社務所編刊、昭和五十八年）
内田百閒『冥途・旅順入城式』（岩波文庫、平成二年）
靖国神社監修・所功編『ようこそ靖国神社へ』（近代出版社、平成十二年）
坪内祐三『靖国』（新潮文庫、平成十三年）